貿易システムの思い出

貿易システムの思い出

以前勤めていた会社では最初は貿易部という部門に所属していました。 いわゆるコレポンと言われる海外の商社との取引もありましたが、殆どが海外の工場や営業支店との取引書類の作成が主な業務でした。

会社は電子部品と機械部品を作っている会社でした、最初はシンガポールに機械部品の工場を出して大変コストダウンが出来たことで、タイにも工場を出すことになりました。しかし、その当時はまだ電動のIBMのタイプライターにインボイスやパッキングリストといった用紙を挟んで手動で書類を作成していました。単価かける数量で金額を出すのも電卓でやっていました、何百アイテムもあるときはこの計算だけで相当な負担になります。

その頃は月に150件くらいの書類作成でしたので、数名の貿易部員と日通航空という航空輸送業者の社員の方が部に駐在していて書類を作って何とか間に合わせていました。  それがタイに工場を作ることになり、シンガポールよりもはるかに大きな工場なので、生産量も何倍にもなるのと、その原材料の発送や完成した製品の輸出入等で月に900件以上の書類作成数になることが想定できました。タイ側でもシステム化で書類作成できるようにしないとなりません。

その為に手動のタイプライターなんかで書類なんか作成できないということで、急遽コンピューターシステムで書類を作成して貿易売り上げ等の経理処理もできるようにしないといけないと考えました。 それで、担当の専務にシステム導入をしたい旨の稟議書を書いて提出したのですが、何回出しても許可がおりません、こちらもシステム導入しないとパンクするのは分かって居るので必死で稟議書に手を加えては提出しました、やっと6回目の稟議書提出で許可がおりました。 それには条件が付いていて、4月に稟議が下りたのですがその年の10月1日にスタートさせろという条件でした。わかりましたと言わないとシステム化の予算はもらえないので分かりましたと答えて、システム化のスタートを切ることができました。

その当時の金額で5千5百万円という予算でした、しかしシステム部の部長に協力のお願いに行ったら経理システムの開発で忙しくて協力できない、一人だけプログラマーを出すから彼と作れと言われてしまいました。

そうしてスタートしたのですが、当時会社の経理システムで使っていたIBMでは無く伊藤忠商事が扱っていたWANGコンピューターという元IBMに勤めていた人が設立した会社の設備を導入して、私もプログラムができないとならないと思いプログラム教室に通い基本を覚えました。大学の教養でフォートランというコンピューター言語を学んだ経験は有ったので全くの素人では有りませんでしたが、殆ど素人状態でスタートしました。 但し、言語はRPG-ⅡというIBMの言語を使いました、それは将来IBMに設備を統一した時にプログラムをすぐに移管できるからでした。

開発期間が6カ月しかない中で一人のプログラマーから教わりながら、二人でプログラムを開発しました。 いわゆるプログラム仕様書は現場を知らないプログラマーやほかの人がプログラムをメンテナンスするために最初に作成するのですが、それは私の頭の中にしっかり入っていたので、時間短縮のためにアルゴリズムをもう一人のプログラマーに手書きで渡して作成してもらいました、私は頭の中のアルゴリズムでプログラムを書きました。集計用も含めて300本以上のプログラムを書きました。

しかし、輸出システムの70%くらいしか10月1日のスタートには間に合わないことは分かっていましたが、それでもスタートは切れるのでセレモニーではそれを見せるだけで良いと考えて取り組みました、昼は普通に貿易部の仕事、夜は徹夜続きでした。  そして、10月1日の完成セレモニーでは輸出システムのプログラムだけを動かして、インボイスとパッキングリストをコンピューターから出力する所を専務や部長にお見せすることが出来ました。 それでも輸出の残りをやっつけた後は、輸入、3国間貿易、4国間貿易と作らないといけないシステムはまだ沢山残っていたので、それから1年間は徹夜こそしなくなりましたが、残業続きでした。

それだけ頑張ったかいが有って、部員の人たちも新しいシステムに素直に切り替えて動かしてくれました、それは今までやっていたことをIBMのタイプライターからシステムのキーボードで入力するだけで、単価かける数量の計算等は今まで電卓で計算していたものが、やらなくて良くなったことと作業手順を変えなかった事も歓迎された理由です。現場でプログラム開発をする良い点だと思います。

スタートしてから2年近くで、システム部長が貿易部システムとして出来たものをコピーして海外工場や営業支店等に移管設置をしたことで、世界中でシステムが動き始めました、それに伴って一人だけ貸してくれたプログラマーの彼はその移管の仕事で世界中に出張することになりましたが、いまでもそのシステムが稼働しているのは私の少しだけ自慢でもあります。

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