シンガポールの営業の思い出1

シンガポールの営業の思い出1

フィリピンのマニラ空港に緊急着陸して、何とか無事にシンガポールに着任できたのですが、夜遅くに独身寮に入り、朝は7時前に起きてダイニングルームでメイドさんの作ってくれた目玉焼きとハムとサラダとパンの朝食を食べて、営業車に乗り込んでシンガポール事務所に向かいました。

シンガポール事務所には20人ほどのメンバーが居ましたが、その中で日本人は支店長を含めて7人ほどでした。 その中のN君がアメリカ事務所に転勤になるので、私がその後釜に赴任したという訳です。 シンガポール事務所に最初に赴任して1年ほど居れば英語もかなり上達するので、その後にアメリカやイギリスに転勤させるというのが会社のやり方でした。

そのような形になれば、私もアメリカかヨーロッパに次には転勤したのでしょうが、結論を先に言うと、ちょっとしたハプニングが続いてそうはなりませんでした。

初出勤の朝に事務所でメンバーに自己紹介をするのですが、何回か仕事で海外出張はしていたのと英語の勉強も個人的にしてはいたのですが、言葉がすんなりと浮かんで来ずに、詰まり詰まりやっと話して汗をかきながら自己紹介を終えました、それでも優しい事務所のメンバーは拍手をしてくれました。

それから、支店長に呼ばれて今まで日本でやって来た事を聞かれて、これから私にどうしてもらいたいか等の話をされましたので頑張りますと答えました。 その後はアメリカに転勤になるN君と一緒に車で、彼が担当している会社を訪問し、担当の方にはN君から私の後任の者ですと紹介されました。

そうしたら、その担当者が呆れた様にまたまた引き継ぎですか? お宅の会社は半年に一回は担当者が変わるよねえと嫌味っぽく言われてしまいました。 たしかに会社の業績が急激に良くなっていた為、私が貿易業務をシステム化して対応した様に、海外での営業マンを増やさなければならない時期だったので、半年から1年シンガポールで実務経験を積むと欧米の支店に転勤というのが常態化していたのです。  N君も恐縮しながら、本当に申し訳ございませんが、会社の指示なので何とかよろしくお願いしますと頭を下げていたので、私も一緒に頭を下げていました。

N君には大体10数社のお客が居たのですが、その全てで担当の方から同じ話をされて、同じように頭を下げて回りました。 日系の会社もありましたが、お客の殆どが欧米系のブランドのある会社で製造の為にシンガポールに進出していた工場でした。 担当の購買の方は欧米系かシンガポール人で英語で無いとコミュニケーションが取れないので苦労しました。 その工場に、我々の会社の製品である、電子機器のコンピューター、コピー機、ファックス機等に使われるベアリングやモーターや冷却用のファンモーターや電源トランスやスピーカ、機械部品、金型といった製品を納入しており、その注文を貰ったり、生産納期を調整して製品を納入したりするのが営業マンの役割でした。

納入している製品の種類も多いのと、製品はシンガポールの自社工場で作っているもの、タイの自社工場で作っているもの、台湾の自社工場で作っているもの、日本の工場で作っているものと生産工場も事業部門も色々な所の製品を売っているので、その連絡ルートも覚えないとなりません。

また、シンガポールは淡路島くらいの大きさの島なのですが、中心部は渋滞防止の為に一方通行が多く、行きの道と帰りの道が違うことが多いので、中々道を覚えられないという難しさが有りますし、シンガポール内には工業区が数か所にあり、そこまで行く道を覚えるのも一苦労でした、そんな訳で約1か月ほどの引継ぎ期間があったのですが、中々全てのお客をキチンと何回も訪問できたわけでなく、中途半端なままでしか引き継げなかったお客様もありました。

また、シンガポールには大きなボールベアリングの工場が有り、タイのアユタヤに新たに設立したボールベアリングの工場はまだ最終組み立て工程しか稼働していなかったので、シンガポールから部品をタイに送っていました。

その部品の輸送には自社保有のビーチクラフト・キングエアという12人乗りの双発のプロペラ機をシンガポールとタイのバンコックの間で飛ばしていて、その飛行機に出張者数名と一緒に段ボール詰めの部品を沢山積み込んで運んでいました。それが下の写真です。

そうこうしている内にN君がアメリカに転勤する日がやってきました。 N君が乗っていた営業車の日産ブルーバードにもう一人の営業マンのNa君と3人で乗ってシンガポール空港まで送って行きました。 私はまだ道に詳しくなかったのでNa君が運転してくれたのです。

N君を無事に見送って空港からECP(East Coast Parkway)に向かうところで、Na君が運転しながらシフトレバーの後ろの小物入れの中を覗き込んで何か探していました、あれっ、何を探しているんだろうと思っていたら車が右に寄って行ったのです、その先には中央分離帯の切れ目があったので、あれっ、Uターンするのかなと一瞬思ったのですが、速度も落とさないので、慌てて「ぶつかるぞ!」と叫んで右手を延ばして慌ててハンドルをつかんで左に回したのですが間に合わず右のタイヤ部分から中央分離帯の切れ目にドーンとぶつかってしまいました、ほんの数秒間の出来事でした。Na君は全く道路を見ていなかったのです、ハンドルを左に切らなかったら正面から突っ込んで、大事故になる所でした。 降りてぶつかった所をみたら右の前輪が完全に90度右に曲がっていて、とても走れない状態でした。

そんな訳で、Na君が慌てて会社に電話してきますと言って車と私を残したまま空港ビルの方に走って行きました。 携帯電話がまだ普及していなかった時代です。 かなり待っていたらやっとNa君が帰ってきて、総務の人間と営業の人間が来てくれることになったと言うので、二人で車の中で待っていましたが、Na君はかなり落ち込んでいました。 聞いたら駐車場の領収書を探していたそうで、そんなもの着いてから探せばよいのにと思いましたが、まあ余り気にするなよと慰めました。

その事故を起こしたブルーバードは翌日から私が営業で乗る予定の車だったので、代車は借りられるのだろうかと心配しながら待っていました。 そこに総務の人間と営業の人間がそれぞれ車に乗って来てくれました。 総務の人間に事故の説明を済ませてから私とNa君は営業の人間の車に乗って事務所に戻りました。 その後、車は修理に2週間くらいかかるという事で、また、代車も借りられないとのことなので、私はもう一人の営業マンのH君と二人で両方のお客を回ることになりましたが道を覚えるには良い時間でした。

シンガポールでの営業マン生活の始まり部分の思い出でした。 その後のお話はまた続きを書かせて頂きます。

 



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