最近、宗教の問題が政治家も巻き込んでマスコミをにぎわしていますが、私が宗教というものを初めて意識したのは、親戚の伯父が亡くなったときです、小学校5年生だった私は伯父のお通夜に小学校6年生の従兄と別室の布団に寝かされていましたが、初めて身近の人が亡くなったので中々眠れませんでした、従兄はお父さんが亡くなってしまい、布団の中でずっと泣いていましたが、何も声を掛けられませんでした。
翌日が告別式でお坊さんが来て、長いお経をあげてから出棺となりましたが、お寺のお坊さんはこんな事してるんだと思った程度で、宗教としてはっきり意識はしませんでした。
次に宗教を意識したのは、大学に入ってからで、妹が高校性の時にモルモン教に入信すると言い出した時です、父がそんな変な宗教に入るんじゃないと言っていたことを覚えています。 妹は正式に入信はしていませんでしたが、コーラもお茶もコーヒーも飲まなくなっていて、水か白湯か新鮮なジュースの類しか飲まなくなっていました。
その後、父の説得が効いたのか、モルモン教には妹は入信しませんでした、今は孫たちに囲まれてコーヒーもお茶も飲んで幸せにしています。
色々な規則事で人を縛る様な宗教はあまり賛成できないと私は思っています。
その後、大学の友人のお兄さんが、キリスト教系のGLAという宗教に入信して、普及活動をしたりしていましたが、私や友人たちは全く相手にしませんでした、しかし聞かされた教義の内容は耳に残っていて、輪廻するのは心を磨いて更に上の霊になるためだとか、神は光のエネルギーなんだとかいう話をされたのを覚えています、光のエネルギー説はその時は説得力あるかなと思いましたが、ビッグバン以前には光は無かったので、今ではそれはないなと思っています。 宗教はとかく科学的でない考えを見てきたように言う所もあるので、私はあまり信用していません。
社会人になってからは、塩野七海という女流作家が長年イタリアに住んで、古代ラテン語もマスターしてダンテの新曲を歌ったり、バチカン宮殿の中の古文書書庫に入る許可を与えられて、羊皮紙に古代ラテン語で記された古文書を読みまくり、古代の歴史書を読みまくって書いた、「ローマ人の物語」という大長編小説を読んで、古代ローマ帝国時代の歴史と工学技術に興味を持つのですが、その中で塩野七海女史が書いているのは、一神教の人々は他の神様を異教として受け入れないから良くない、古代ローマ帝国時代は多神教で、征服した国々の宗教にも敬意を払ってそのまま信仰させていたという所に、政治的な臭いはしますが、正しい在り方だと思いました。
日本も八百万(やおよろず)の神が昔から居て、かまどの神様、井戸の神様、田んぼの神様の他にも古代からの沢山の神様がいます。
そういう社会の方が普通だと考えるのは多神教の日本で育ったからでしょうか?
宗教は古代は国々の王と結びついて色々なことを行ってきました、古代エジプトでは王様(ファラオ)が亡くなると、またこの世に戻ってきて蘇るようにとミイラにして大事にお墓に保管されましたが、本当に生き返った王様の話は一つも聞きません、宗教は大体そんなものなのだと考えるのが正しいのではないかと思ってしまいます。 キリストにしてももう一度よみがえってくれたら、皆が信じるのに、出来ないはずは無いのに何故やってくれないのかなと思ってしまいます。
一神教のユダヤ教やイスラム教やキリスト教は出自は同じところから出ているという考えが今では普通ですが、宗派が別れてしまうと自分の所が正しいと言い張って他を認めない所が気に入らないところです、どの宗教を信じるかは、それぞれ個人の判断に任せればよいのになあと思いますし、あれやってはダメ、あれ食べてはダメとか人を縛るのもいやですね。また国民たるためにはこの宗教に入信していないと駄目というような政教一致の国(宗教)も駄目だと思います。
昔マレーシアに駐在員として住んだ時に、インド系や中国系のマレーシア人はイスラム教徒で無いと参政権も選挙権も与えられておらず、税金は取っているのにそれは無いんじゃないかと思いました。
日本では宗教団体には駐車場経営やマンション経営等の収益事業以外のお賽銭や寄付収入等には税金を払わなくても良い特典が与えられていますが、本当に人々の心の安寧を願ってくれる宗教団体以外は税金をある程度は取り立てた方が良いのではと思います。
多額の寄付を集めていて金儲けとしか思えない宗教団体からは税金を取り立てることにすれば良いと思いますし、寄付の範囲もそこの宗教団体の電気代や水道代や職員の給料をまかなえる程度の金額以上のものは税金の対象にして何パーセントかは課税するべきでしょう。
六本木のナイトクラブに出入りしている頭を丸めてジャケットを着たお坊さん達が高い酒代を払っているのを昔は良く見かけましたが、今も変わらないと思います。 信者の寄付では無い駐車場やマンション経営で儲けたお金かも知れませんが、宗教のそれなりの地位にいる人たちの行為とは思えません、スタンダールの小説の「赤と黒」にも200年も前からの同様な聖職者の堕落も書かれていますから、限られた範囲以上に宗教を保護する必要は無いと思います。
しっかり税金を取る様にすればその宗教団体は国の為に立派に税を払うと言う行為を行っているということにもなります。
基本的には、家族の為にお金は使いなさい、宗教は皆さんの心の安寧の為のお手伝いをしますので、その中からわずかに寄付を頂ければ良いですよ、というのが真の宗教だろうと思います。
大きくて立派な寺院や施設を作って、いかにも「ありがたいだろう。」というようなものは要らない筈です、そういう宗教団体からは固定資産税と法人税をしっかりと取ることが正しいと思います。
そうすれば、勝手な教義を掲げて金儲けとしか思えない行動をしている宗教はかなり駆逐されて、本当に信者達の心の安寧の為に務めている宗教だけが生き残るという事になりますので、現状よりは良い世界になるはずです。
それぞれの宗教にはそれぞれの神様が居ることになっていますが、宗教にもし本当に神様が居るのなら、「ここにいるよ、ほら見てごらん。」と皆の前に表れてくれるのを願って来ましたが、長い間どの神様も現れないという事は、神様は居ないと考えるのが正しいのではないかと思ってしまいます。
神様が居るとも居ないともどちらも証明できないのが現実ですが、それだと、何を言っても良いことになってしまい色々な金儲け主義の宗教も出て来ます。 そこは政府が規制しないといけないと思います。 宗教の自由とはしっかりとした神が存在する証拠が無いのなら、何を言っても良いという事ではないと思います。
宗教を名乗るなら神様を連れて来るか、誰もが納得できるように神の存在を証明出来ないと宗教団体と認めないことにしても良いと思います。 そうしたらどういう言い訳をするのでしょう。 信者の安寧を祈る教祖が我々の宗教の中心で神を立てているのではないという宗教も既に存在すると思いますが、もっと沢山出て来るでしょうね。そういう宗教は神様不要論に立っているのかも知れません。
私は一神教を信じている者ではないので、お葬式の時には仏教式に手を合わせますし、七五三の時は神社で祝詞をあげてもらいますし、初詣では柏手を叩きます。
キリスト教式の結婚式に出た時は、荘厳な気持ちで賛美歌を歌いますしキリスト教式に手を合わせます。 私としては、それで良いんじゃないかと考えています。
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