蒸気機関車の辛い思い出

蒸気機関車の辛い思い出

昔の蒸気機関車の旅のお話です。

今から60年近い昔、小学5年生の夏休みに1か月ほど、鹿児島で農家をやっているおじいちゃんの家に遊びに行きました。

私は東京に住んでいたので、鹿児島までは列車で行かないとなりません、それも東京と大阪の間は電化されていたので、電気機関車の引く列車に乗って行くのですが、大阪から鹿児島までは蒸気機関車の引く列車に乗って行かないとなりませんでした。勿論、どちらの機関車に引かれても客車にエアコンなどはついていなかった時代ですから真夏の客車内はとても暑いのです。

今は、蒸気機関車は珍しいので、子供から大人まで蒸気機関車好きの鉄道ファンの方も多くいますが、私は蒸気機関車を見ると、子供の頃に長旅をした辛い思い出がよみがえって来て、それほどには喜しい気持ちにはなれません。

その当時は東京駅から鹿児島駅まで一昼夜(約24時間)掛かりました、東京駅を夕方に発車した電気機関車は大阪駅に真夜中過ぎに到着します、そこで電気機関車を切り離して、蒸気機関車をつなぎます。それから蒸気機関車での長く辛い旅が始まります。

夏の夜でも暑さは残っているので、客車の窓はどの窓も全開状態で走りますが、蒸気機関車は石炭を燃やした煙が客車の方に流れて来て、窓から入ってきます。 それでも広い所を走っている時は窓から入って来る煙の量も多くは無いので我慢が出来ます。

しかし、蒸気機関車がトンネルに入ると窓を閉めないとすごい量の煙が客車の内部に入ってきます。ひどいときは真っ暗になった感じがするほどです。

ですから、全ての窓側に居る乗客は、窓から列車の前方を見ていて、山が近づいてくるとトンネルが有ると先読みをして窓を慌てて閉めます。 全部の窓がそのようにトンネルの手前で一斉に閉められて、トンネルを抜けると一斉に開けられるという作業が終点の鹿児島駅に着くまで延々と繰り返されます。

でも時々、平野を走っていて山が余りないときに油断して、トンネルが近づいても、窓を閉めるのをうっかりしたお客が居て、その窓から煙がワーッと入って来る時が有ります。そんな時は他の乗客からその窓のそばに座っている乗客に冷たい視線が飛びます。何回かそんな事が起きながら蒸気機関車は進んで行きました。

今の快適な列車に乗った経験しかない人には想像もできないのではと思いますが、私にとっては本当に辛い列車の旅でした。何年か後には山陽本線が電化になり、残っていた九州の区間も大夫後になってから電化された時は、本当に良かったあ! と子供ながらに喜んだものです。

そんな長い蒸気機関車の旅を終えて、次の日の夕方に鹿児島駅に着いて家族の衣類を見ると、皆の服に蒸気機関車の煙の煤が沢山付いて、灰色がかって見えたものです。 そこから今度はバスを乗り継いでおじいちゃんの家に向かうのですが、道路は舗装されていないけれど、土ほこりはバスの後ろに行くので、窓を開け放していても土ほこりが入って来る恐れはないので安心して乗っていられました。

おじいちゃんの家に着いてお風呂に入って、スイカを食べたらやっと着いたんだ、良かったあ! と思ったものです。

それほど長時間の旅でも田舎のおじいちゃんの家に行くのが楽しくて往復の蒸気機関車の旅はじっと我慢して乗っていました。

次からは田舎のおじいちゃんの家での色々なお話を書かせて頂きます。

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