都電の思い出

都電の思い出

私が幼稚園生の頃、私の家は高輪にありました。 幼稚園には毎日高輪北町駅から都電の7番に乗って青山一丁目駅で降りて、そこから歩いて今のスキーショップジローの前にある交差点内に有った青山幼稚園に通っていました。 私は都電に乗るのが大好きで幼稚園にまじめに通ったのも都電に乗りたかったからと言うのが一番の理由です。

いつも運転席の横に張り付いて運転手さんの動きを見ていました。

家に帰った時に空き箱を見つけて、それに厚紙をハサミで切って操縦席のレバーを作り、釘を刺して空き箱に止めると操縦席の出来上がりで、高輪北町から青山一丁目までの駅名を言いながらレバーを動かして、家では毎日都電の運転手になっていました。

1957年の小学校1年生の夏休みには青山4丁目に引っ越したので青山小学校に途中入学しましたが、幼稚園の時の友達が沢山居て、全然転校してきたという気分にはなりませんでした。

その後、残念なことにオリンピックに関係した道路拡張が進んでいて、外苑西通りも車が1台しか通れないくらいの狭い道(丁度今の外苑西通りの歩道部分が昔の車道です。)だったのですが、子供の遊び場だった墓地の椎の木並木の有った草はらのスロープが削り取られて片側2車線の広い道に拡張されました。 その為1962年ころには幼稚園は近くの裏道の横に移転になってしまいました。

さて、都電についてですが、青山通りには渋谷から須田町の方に行く10番と渋谷から四谷三丁目の方に行く33番が走っていたと思います。 また西麻布(昔の霞町)から青山一丁目方面には私が幼稚園に通った7番が走っていました。 そして今の青山墓地下の二又を右に行って、星条旗通りと呼ばれる脇道の交差点から先は、青山一丁目方面へ行く道路は無く、都電だけが走れる草はらが有って、線路が4本あるだけでした。

上の写真が1963年9月頃の青山墓地下に向かう都電7番です、線路は草はらの中を通っています。ここは自動車は通れませんでした。(この写真はかずの作品「私の鉄道」から拝借しましたhttps://www.photoback.jp/Stage/Photoback/PBER-1899000904151508070。 

そんな訳で自動車は青山墓地下から青山一丁目に行くには、左の青山墓地に上がる坂道を上がって、青山墓地の真ん中にある十字路を右に行き、左カーブを下りて青山斎場の横に出てから左折して青山一丁目に行くしか有りませんでした。(逆方向の場合はその反対ルート)

それも東京オリンピックの為に1964年頭にはその草はらの線路だけの部分も舗装されて自動車が走れるようになりましたので、今の青山一丁目から西麻布に抜ける道も便利になりました。 それでもその舗装道路になったところを都電の7番は走っていましたが、残念なことに1969年10月で廃線になってしまいました。

確かその後は都電とおなじように架線から電気をパンタグラフで採って走るトロリーバスが一部路線を走っていたと記憶していますが、トロリーバスに乗った記憶は有りません。 7番の走っていた路線はトロリーバスは走らなかったと思います。

第一回東京オリンピック(1964年)を境に青山、表参道、六本木、西麻布辺りはドンドン変わって行きました。

コメント

  1. After The Sunset コウタ より:

     西麻布の都電の話は、浅田次郎「霞町物語」で読んで知りました。
     そして20年ほど前、ワインバーのゴンタさんから外苑西通りの道路拡張の写真を見せてもらい、それを太陽新聞の表紙に使わせてもらった記憶があります。
     都電時代の西麻布がオリンピックで変わっていった様に、2000年代の西麻布も随分様変わりして、今では北海園さんと笄さんと無垢さんくらいでしょうか。あ、コモドもありますね。
     東京ジュークジョイント、喰や堂、パドック、クヌーギーズ、ダッドバー、ブラックホール、ナイトトレイン、、、当時の西麻布が懐かしいです。